2014年個展 『神廟の慮外』展



飛鳥落日と競う




古港に浸りて朝を待つ


迷廃にては光彩は叫ぶが如く



夢夢どもの巣食う夜からの帰還


古都海遊女図

焚炎と踊るは誰ぞ


捕らえ合うものたち


旅するプリマヴェーラ
弦で漕ぐように
弓で咲くように


展覧会名 神廟の慮外 しんびょうのりょがい とは何か?
毎回、僕は展覧会名を必ずつける事にしています。
枕河の舫、異郷の数秒、楽園の物議などです。

まずは神廟。神は神、ゴッドですね。廟は魂を祭っているところ。その意味する所は時と場所によってちょっと違うようですが、今回の僕の設定としては、神殿とか聖域としています。慮外は辞書を引くと、思いがけないこと、無礼なこと、ぶしつけ、予想外とあります。思慮とか神慮、深謀遠慮とかのなかで使われています。僕の今回の展覧会の主題としては、不可侵なものなかに、その愚かさ小ささ故に足を踏み入れてしまう事によって起る何事かです。つまり、簡単にいえば、場所柄をわきまえずにやらかしてしまう人々という訳です。もちろん全ての絵がそうではありませんが、ある種の神聖を描いていますので、まあよしとしましょう。
大きなテーマとしては、人間と神という二本柱。人の無知と神の叡智。
僕は今回、人に作品の説明をするときに、自分のイメージを神話的なものにからめ、あたかもオーディオアンプのように、イメージを増強したのだと説明していたけど、それは自分で言っていても、なんだか少し違うような気がしていたし、浅く軽薄な物言いであると思っていました。
それはいうなれば表面的技術的な事であり、ちっとも核心的な事ではなかったからでしょう。
個展会場の壁に掛けられた作品群を見ていると、単体の作品を描いているときにはわからない、ひとつの流れのようなものがほのかに見えてきます。会場で見たおぼろげな流れ、自分の作品を6日間うんざり飽きるまで見た果てにやって来る景色。単発に現れたるイメージは繋げてみれば一つの想いになっている事に気がつきます。
それは、願い。寛容と許しでした。
僕の描いている神々。彼らはやがて滅びゆくものと想像され、やや憂いを帯びた諦観があり、人の無礼不敬に本気で怒ったり罰したりしないらしい。彼らもやがては滅ぶ。不滅ではない神々。神話はやがて忘れ去られる。そして、それを彼らは良しとする。僕の老いたる神たちは優しい。
これは僕の世界もそうであって欲しいという、甘っちょろい祈りだろうと思います。
我々の所業の先行きに宇宙の寛容あらんことを。

                                               2014年 2月16日 濱中 大作


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